土地と共に生きている人々の生活の中に『地域文化』が息づいている

池田正人(1期)

米澤稔秋(よねざわ としあき)さんとの出会い

 八十二文化財団では「地域文化」とはなにかというテーマを、設立以来ずっと追い求めてきた。財団の考え方はその時々の財団で働く職員によって変化してきたが、自分が財団で働いていた時(1995年から2004年)は、「地元と密着して、土地とともに生きている人々の生活の中に『地域文化』が息づいている。」という仮説を立て実証を試みた。1996年に実施した長野県民に対する「長野県の郷土と文化」の調査の結果は「郷土の生活文化・伝統文化」に対する関心が高く、「自然の中で実際に行動する文化活動」をする行動型文化活動を求めている人々が多いことが分かった。
 仮説の実証は、牟礼村(現飯綱町)と提携して「山と里との交流」事業(1999年から2001年)を実施する中でおこなった。実施期間は3年であったが、準備期間、「まとめ」(報告書作成)をあわせて5年間をかけた。  牟礼村をフィールドとして、都市部と農村部の人々との交流の中で、都市部の人は自然の大切さ、自然とのかかわり方を学び、農村部の人は自分の住む村の生活文化・伝統文化の価値を再認識し、両者はそこにすむ人々の生き様を知りその中に「地域文化」を見つけることであった。  講座は「森の学校」「炭焼き講座」「米塾」「果樹」など14講座を開設した。
 私は米塾を担当し、講師に寺島祥一(てらしま しょういち)さん、米澤稔秋(よねざわ としあき)さん、廣田俊雄(ひろた としお)さんの3人に講師になってもらった。三人の講師の分担は寺島さんの水田を借りて、米澤さんが村の農業・水利の歴史を講義し、廣田さんが実習指導にあたった。
 米澤さんの水利の歴史では、柳里の田の水源の一つである霊仙寺山山中にある大門川の水源などへ案内してくれた。また水利が傷害事件もともなう深刻な問題であったことを、実例を挙げながら講義してくれた。
 3人とも住まいは牟礼村大字柳里である。米澤さんが字中宿、寺島・廣田さんは字横手である。米澤さんのところから寺島・廣田さんの家は海抜で110m上がったところにある。このとき米澤さんは75才で、寺島さんが年上で、廣田さんが年下だった。3人は姻戚関係で結ばれていて、米澤さんの姉さんが寺島祥一さんお弟さんとのころに嫁に行き、寺島さんの奥さんは米澤さんのところの分家から嫁にいっていた。廣田さんの奥さんは米澤さんの従妹という関係であった。
 日本の農業史で、農民が作物を作ることに対して誇りを持ち、収穫こそが一番の喜びであると言いきれたのは、1945年から水田の減反政策が始まる1970年代前半までの30年間だった。
 敗戦後、農地解放を経て、食糧管理法により米価が統制され、農民に有利に設定された米価のもとで米の増産と、毎年の政治行事として政府買上米価の引上(米価闘争)をおこなっていた期間であった。
 1960年代後半になると生産過剰が明確になり、1970年からは減反政策が導入され、1987年から政府買入価格が引き下げられた。1995年には食糧管理法は廃止され、新たな食糧法が施行されて、米は入札や産直で価格が決定されるようになった。
 米澤稔秋(1927年~2011年)、専業農家として戦後農業の輝かしい時期と、後継者もなく農業が衰退していく時期の二つの時期を生きてきた農民である。
 米澤さんは「自分がしている農業の後継は子供たちが定年退職したら帰ってきてくれるかだが、今の経済状態の中では百姓をやれて言ったって無理な話だ」と言う。
 米澤さんは、経営耕地面積173a、家族は夫婦と子供さん3人で、働き手は米澤さんと奥さんである。子供さんは皆別居していて息子さん2人は国家公務員で、娘さんは長野の税務事務所に勤めている。学校は北部農学校(現長野県立北部高校)を出て、代用教員を1年やり、その後木曽山林へいって学んだ。そして出来れば県庁へ勤める計画であった。
 父は分家がやっていた食糧販売店に70年の上、後見を兼ねて勤めていたので母が一人で農業をやっていた。21才の1949年(昭和24年)に母の農業を手伝うためやむおえづ家にはいった。  世の中は食糧難で物資も満足になかったが、農家は食料には困らず、米で長靴を買ったりして恵まれた生活をした。当時の農業の目的は食糧増産であった。
 政府は、戦前からの食糧管理法を維持し米価を統制してきた。この制度は高い価格で農家が生産したすべての米を買い上げ、一方消費者には買い上げ価格よりも安い価格で販売した。この制度により米の生産は急激に伸び、戦後の食糧危機を克服していった。

牟礼村の農地解放

 1946年10月に第二次農地改革法が公布され、農地改革が始まり、1948年農地買収売り渡しが終了した。この農地改革は①不在地主の小作地、②在村地主は所有限度2町5反とし、それ以上の小作地を小作人に安価で売り渡すことであった。どのくらい安価だというと、田(1反=10a)600円から900円で売り渡すことになったが、1946年の米1表(60Kg)は1,438円(闇値は倍以上)だから、米1表以下の値段で田が買えたことになる。
 不思議なことに、農地改革にかかわる記録は長野県庁にも、村の役場にも記録が保管されてないという。牟礼村では「高岡村の歩み」(1957年刊)と「中郷村農地改革誌(1950年刊)が当時の改革の資料が残っている。それによると
 高岡 A・農地総面積 236.4ha  B・買収・売渡面積 48.1ha  B/A 20.3%
 中郷 A・農地総面積 239.1ha  B・買収・売渡面積 49.9ha  B/A 20.9%
 牟礼村には大地主は存在していなかったが、農地改革の対象になる不在地主の小作地と、在村地主で2町5反以上の所有者がいた。買収・売渡面積は農地総面積の約20%であった。米澤さんが農業を始めるようになったときは、農地改革が終了し、農民に土地の再配分がおこなわれ、自分の土地を獲得した農民の生産意欲が最高に高まった時期であった。

ソブ川の鉱毒対策

 米澤さんの住まいの、中宿の人々の先祖は三河国加茂郡月原村(現愛知県豊田市月原町)にあった浄土真宗明専寺(現信濃町)の門徒であった。徳川家康の念仏禁止の禁令により、国外追放を言い渡されたので親鸞上人のゆかりの越後方面へ向い、1590年(天正12年)中宿村へ移転してきた。
 定住した土地は農業には不利な土地であった。特に水利が悪かった。水量は十分であったが、ソブ川といって、水に褐鉄鉱が含まれていた。
 この川の水を引くと、水稲は、幼穂形成期から出穂期にかけて葉尖部が黄褐色に変わり、次第に下方まで進展し、極度にひどい水田では枯れ死寸前となる現象が毎年繰りかえされ、収量がおちた。
 被害は上流のほうが大きく中宿が一番被害をうけた。村の人達は「一楽田圃(中宿の田んぼ)に、またイモチ病がでた」といっていた。
 ソブ川の水に含まれている褐鉄鉱が水田に鉱盤を形成する。ちょうど植木鉢の中に稲を栽培すると同じことで、7月頃になると、鉢の中の根がいっぱいになりこれ以上伸びなくなると葉先が涸れてくる。この鉱盤は江戸時代中期以降堆積したもので、ツルハシでたたいても破砕できなかった。
 1950年、農業改良普及員として高岡村へ赴任した松本睦技師の指導で、中宿農事研究会が発足した、ここへ米澤さんも加わった。この研究会では7年間にわたり気象観測もおこなった。米澤さんの手元にはこのときの観測データーが保存されている。
 改善策は①水田の鉱盤粉砕と②ソブ川の水質改善であった。①の改善策は1974年から始まる圃場整備事業で実施されることになるが②の水質改善は「沈殿池の設置による水質改善」であった。この問題は一部の農家単位の努力や、力だけでは問題解決にならなく、村はじめ、県へ陳情を行ったが、村の合併でのびのびになり、1966年頃から話が盛り上がり19人で村から県へ陳情し、県営鉱毒対策事業としてとりあげられた。そして飯綱東高原の大谷地湿原に2億1570万円をかけて霊仙寺湖と名づけられた貯水池が1973年に竣工した。受益農家は200戸、60ha(町)である。
 この土地に生れたからしょうがないとあきらめていたが松本普及員のおかげで、肥沃な土地に生まれ変わった。霊仙寺湖は現在村の観光のメインとなっている。

米の減反政策が開始された時期にほ場整備事業をおこなう

 1960年代後半になると生産過剰が明確になり、1970年からは減反政策が導入された。この時期に牟礼村は県営ほ場整備事を実施した。
 事業の概要は1974年から1988年の工期で、小さな水田を標準30aの水田に区画整理し、合わせて農道、用排水路の整備をするという事業で、総面積266h、参加農家637戸、総事業費27億71百万円で牟礼村内の水田総面積の70%に及ぶ村が始まって以来の大工事であった。
 30馬力の大型トラクタを導入して作業効率を上げる、そのために水田の表土下の土層を固くしてトラクタが沈まないように土層を改良する。水田の区分を標準で30aの長方形にするとともに、用水路と排水路を分離して、農道をトラクタの通れる幅に拡張する。農地の集団化と、機械化一貫作業体系を確立し、作業を共同化または省力化することにより、農業生産性の向上をはかることが目的であった。
 米塾の講師の先生方は横手で廣田俊雄・換地委員、寺島祥一・評価委員、中宿で米澤稔秋・用排水委員としてそれぞれ重要な役割を果たした。とりわけ換地委員の廣田さんは大変な苦労をした。
 この事業は中宿で一番最初に施行された。牟礼は積雪が多く、冬季間は工事ができないため、栽培、収穫期を含む通年で施行する。工事期間の1年は農業収入がなくなることになる。だが、この時期、村に減反割り当てがきていた。施行工区の水田は全部休耕になるので、これを未実施工区の休耕割り当て枠に充当し、そこの水田を借りて米を栽培するなどして1年間を乗り切った。
 農家1戸あたりの負担は10a当りおおよそ30万円であったが、借入などして資金をつくり、そんなに負担感はなかった。用排水路の整備、水田の基盤整備により、濾水が大幅に減少し、水不足の心配は解消した。
 ほ場整備事業のおかげで、自分のところで、農業の継承が出来なくても、水田は借りてもらえるので、水田そのものは維持できる。水田にはダムや地域環境浄化機能があるので、水田は後世まで残存しなければならないと米澤さんは言う。
 ほ場整備事業の竣工式のとき当時の平井村長は祝辞で「ほ場整備事業のおかげで江戸時代以前から、農村社会の宿命とされてきた、暗い水利慣行や、曲がりくねった農道は一変し、近代的水田農業の基盤が整えられた。このことは、本村農耕社会における人間関係の改善にも、大きく寄与した。」と述べた。
 米澤さんは竣工記念誌「よみがえる」の編集副委員長を務めた。 (県営ほ場整備事業牟礼区竣工記念誌「よみがえる」長野県牟礼土地改良区刊 1988・4)
 この記念誌のなかで、丸山良雄さんは「希望に燃えて行った立派なほ場も、国の減反政策により3割もの割当てをされて、今や農家も大変な時期になった。考えようによっては、この大事業を行った田は借り手も有り、荒すことにはならないと自分なりにやってよかったとおもいたい」
 井澤俊士さんは「大小合わせて百枚位あった田畑が十枚となった。1975年より期待通りの経営規模の拡大も出来て、大型機械を導入し手間の省力を図り、2haが1人で間に合って、5haの受託作業の経営するようになり、生活の安定を図っています。」
 丸山ミサヲさんは「養蚕、水稲、リンゴと程よく調和した経営からリンゴ中心へ転換した。水田ヘかける手間は本当に少なくなり“米”と言う字も使いにくい程楽が出来るようになりました。苗代を作り、田植えを済ませたらいつの間にか出穂期を迎えていた・・・昔の稲作を想えば受ける恩恵は大きなものです。お陰でリンゴ専業の経営に変わりました。」という所感を書いている。

しょうがないとあきらめない

 中宿はソブ川の鉱毒のため、村の他所に比べ、米の生産量は少なかった。
 この土地に生れたからしょうがないとあきらめないで中宿の人はいろいろの工夫をした。
 明治10年代では繭をうりさばいていたのは牟礼村と柳里村で、他の2村は自家用か村内の需要に応じる程度であった。特に中宿は早くから養蚕が盛んであった。高野成雄が埼玉県の産業学校へ行って養蚕技術を学んできて、広めたことによる。霜の害のときも、室にいれて再発芽の桑を利用し、きょう蛆(さなぎの蛆)の予防などがおこなわれた。
 信蚕会という養蚕技術改良のための組合をつくり、会員には長野市大豆島の人なども会員になった。この技術改良は、棚育(竹で編んだかごにのせ飼う方法)や、ざ桑育(桑の葉をきざむ)から葉をそのまま食べさせる条桑育にかえかなりの省力化ができた。
 繭の出荷もおおく、村の出荷番付で米澤さんは横綱格であった、年間の出荷量で488kgという記録がこの番付表に載っている。
 春は農作業が忙しいので夏・秋に養蚕をおこなった。最盛期はお勝手と、いろり端以外はすべて養蚕のために使用した。庭に天幕を張り、外でもやった。母親と、米澤さん夫婦と人も雇ってやった。桑畑は自分のうちの分と、他のところから畑を借りて桑を作った。また買ってもきた。養蚕の日数は25日であるが、蚕の小さいうちはいいが、食べ盛りになる10日間が一番大変で、食事をしている暇もなく、かきこんで食べた。繭の価格は良く人を頼んでも採算が合った。
 村でリンゴ栽培や、葉たばこ栽培が盛んになると、リンゴの消毒薬のポリドールや葉たばこ栽培で出るニコチンが、桑の葉に吸収されて、それを食べた蚕は育つが糸を吐かなくなったので養蚕を断念した。1967年に横手の廣田さんたち8人は、飯綱養蚕協業組合をつくり農薬を避けて、山林2.8haを開墾して桑を栽培して養蚕をおこなったが自分は参加しなかった。
 リンゴの栽培は従来から国光、紅玉を栽培していたが、東北7号(ふじ)が入ってきた。村で最初に導入した人は父親に黙って小麦畑に植えた。その結果がよくて、村の皆がやるようになり、接ぎ木としても売るようになった。
 米澤さんは「高坂りんご」と呼ばれる貴重なリンゴの保存に努めた。今出回っているりんごにくらべ4~5cmで小さく、味は酸味が強い。「和りんご」と呼ばれる種類である。昔からあるものを絶やしたくないという気持ちから村の高坂地区にあるりんごの苗木を譲ってもらい、3本を1987年ごろから栽培している。

「おら方の歴史・文化は何か」 中宿展

 2003年2月4日から4月6日まで「むれ歴史ふれあい館」で中宿展が開催された。この展覧会は2001年から、牟礼村の各地区が順繰りで開催するもので、「おら方の歴史・文化は何か」を目標に掲げ、区民が皆で1年かけて発掘・調査・研究・制作そしてその成果を展示するという事業であった。
 この展覧会では米澤さんは戦後の中宿の農業のリーダーとしての実績と、中宿の歴史を丹念に調べ、1997年に刊行された「牟礼村誌」の執筆を担当したという実績をかわれ実行委員会副委員長を勤めた。
 当時の仲俣一重・牟礼村教育長は「中宿は昔からソブ水の地帯であり、米作などの悪影響を及ぼし悩まされていました。これを逆手にとりソブを利用して泥染めをおこなった時代があり、これを再現されました。これこそ生活の知恵であり文化であります。ソブに関わる苦労話や歴史などが発表され、中宿ならではの、今になれば村の文化である当時の養蚕の姿を詳細に再現し、貴重な蚕具が印象に残りました。細部にわたり丹念に調査された中宿生立ち年表・各家庭から集めた懐かしい貴重な写真など眼を見張るものが一堂に展示されました。」(「中宿区のあゆみ」中宿区誌編纂委員会、2005年)と書いている。

きれいに草を刈り込んだ美しい村を維持

 昭和一桁の人間は根っからの百姓根性をもっていて、先祖から受け継いだ土地を草でボウボウにしたくない。草をきちっと刈れば景観が見違えるほどよくなる。しかし年をとってくると草刈が一番難儀になる。普通は年に2~3回草を刈るが、3回やれば上出来である。それを米澤さんは4回やるという。刈った草をリンゴ畑に入れる。そうするとリンゴ畑への化学肥料投入は案外少なくてすむようになる。米澤さんのリンゴ畑へ入ると足裏にほこらほこらした感覚が伝わってくるという。
 柳里の道路は中山間直接支払事業の支援をうけ、ここ3年間、年に2回共同で草刈をして景観維持に努めている。県道長野信濃町線で牟礼村の一番高いところにそば処「よこ亭」がある。このあたりが映画「野菊の如し君なりき」(伊藤左千夫原作、木下恵介監督、1955年)の映画のロケ地になった。米塾講師の3人の先生方はエキストラになったりして撮影に協力した。
 こうした場所の草をきれいに刈り込み、美しい村を維持している。

(池田:2003年9月26日 米澤さんの自宅にて聞取り)

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