長野県松本地域における日系ブラジル人の生活・教育とその支援に関する研究 ―「多文化共生」への遠い道のり―

橋住真一(2009年入学―2010年修了)

1・はじめに

 本研究報告書は、大学院へ提出した論文(本文125ページ・調査資料35ページ)の内容を整理し日系ブラジル人の置かれている状況を紹介しながら、研究により明らかにした3点について報告する。①1990年以降の来日動機が「デカセギ」だけではなく長期滞在を前提とした「集団就職的就労」が多く、日本語使用が可能な者は長期滞在により「共生志向型」と「帰化指向型」の2つのタイプの日系ブラジル人にアイデンティティの変容が認められること。②1ヶ所に集住しないブラジル人は、キリスト教会やブラジル人学校をブラジル・コミュニティとして活用していること。③「多文化共生」という言葉が使用されるが、在日外国人の人権保障に大きく関与しており、在日外国人の選挙権などいわゆる市民権付与についての国民的合意がなされていない状況では「多文化共生」が困難であり、特に在日外国人の子どもへの義務教育の保障はその指標であること。解決モデル案(試案)を提案した。この3つを中心に論文作成後の新しい知見等も含めて今回の研究報告書を作成した。この研究は、分野的には、外国人移住者による経済的社会的文化的な影響に関する課題、いわゆる「定住外国人問題」という分野にあたる。
 筆者は、長野県教育委員会が採用した公立小中学校に勤務する公立学校事務職員である。職務の中に児童・生徒の学籍管理がある。児童・生徒の転出入事務を行う中で、1990年から2008年にかけて県内一部地域で外国籍児童・生徒の転入による増加が見られた。これは、1990年の改正入管法により、南米の日系人が多数入国するようになったためである。特に長野県内では2000年以降日系ブラジル人が急増し、子弟の公立学校への入学が増えてきた。帰国を前提としていた日系ブラジル人保護者は教育方針が定まっていないため、子どもたちは日本の教育(文化)とブラジルの教育(文化)の狭間で混乱していた。また、中には自分の子を就学させない日系ブラジル人保護者もいた。こうした状況を見るにつけ、日系ブラジル人の子どもたちやその他在日外国人子弟の教育環境をどう保障すればよいのかと考え研究課題とした。
 フィールド調査は、松本市・安曇野市・塩尻市・東筑摩郡(以下、松本地域という)とし、安曇野市と松本市にあるブラジル人キリスト教会、塩尻市にあるブラジル人学校やブラジル食料品店等へ出かけ、1年間以上インタビュー調査を行った。

2.長野県の日系ブラジル人の推移

2-1 1990年の改正入管法

 日系ブラジル人含む全国の外国人登録者総数(表1)は、国立社会保障人口問題研究所の統計数字によれば、1960年650,566人、1970年708,458人、1980年782,910人、1990年1,075,317人、2000年1,686,444人、2010年2,134,151人である。明らかに1990年の改正入管法の施行をきっかけに全国的に急増した。この法改正は、1980年代後半のバブル経済期に入国した不法外国人労働者対策のための在留資格の改正で、日本で就労可能な医者・会計士などの専門職資格の充実を図り、また単純労働が可能な日系人の定住者資格などが新設された。何故、日系人対象の「定住者」という資格が作られたのか真の意図は明らかにされていないが、アジア系の不法外国人労働者を国外に退去させるにあたり、単純労働を行う労働者として南米移民の日系人を労働者として入国させたらしいということが言われている。
 ブラジル移民1世は日本国籍を持っている。ブラジルは1985年に軍事政権から民政に移管された時からインフレ経済となった。移民1世は日本へ「デカセギ」してくるという形で就労のために入国していた。移民1世の成功はブラジルで評判となり、日本国籍を持つ日系2世も就労のため入国を始めた。しかし、ブラジル国籍を持つ日系2世は入国できても就労することができなかった。1990年ブラジルはついにハイパーインフレ経済となり、イタリア系移民はイタリアへと、それぞれの移民は出身国へ就労のために一時帰国を行った。しかし、日本国籍を持たない日系人は就労のために帰国することができなかった。ところが、この法改正によってブラジル国籍であっても日系2世3世、及びその家族は日本での就労が可能となった。日本での就労動機はその高収入にある。2010年の日本とブラジルの最低賃金の比較をすると、日本はブラジルの5倍である。1990年当時はさらに高倍率であったと想像できる。
 日本国籍を持たない日系ブラジル人の外国人登録者数は1980年1,492人であったが、1990年56,429人、2000年224,299人、2007年には最高の316,967人となった。1908年の第1回ブラジル移民から戦前戦後で25万人の日本人をブラジルへ移民させたにも関わらず、1990年の入管法改正からわずか18年で30万人の日系人が日本へ就労に来ているのである。彼らの就労場所は当初自動車産業の工場を中心に雇用され居住していた。このため、愛知県豊田市や静岡県浜松市、群馬県大泉町などであったが、精密工業関係の工場への就労も始まり長野県への居住も始まった。日系ブラジル人は愛知県・静岡県を中心に北関東から岐阜県・三重県・滋賀県までの東海というエリアに集住している。長野県は愛知・静岡の隣接県として全国有数の日系ブラジル人居住県である。

表1

2-2 長野県の日系ブラジル人

 県内でも集住している地区がある。南信の伊那・諏訪地域、東信の上田地域、中信の松本・塩尻・安曇野地域である。しかし、2008年のリーマンショックによる世界的な経済不況による影響で円高となり、工場は海外へ生産拠点を移転している。このため派遣社員である日系ブラジル人の解雇がはじまり、日系ブラジル人子弟の転校や帰国が始まった。統計で確認すると、長野県内の外国人登録による日系ブラジル人数は、1990年入管法改正施行時には1,410人であったが1999年15,386人と10倍以上となり、2003年18,400人をピークに翌年から暫時減少しはじめた。2008年のリーマンショック以後、2009年10,632人、2010年8,777人と減少し1万人を切った。2010年日系ブラジル人が多く居住している地域は上伊那地域2,441人で次に松本地域1,845人、上小地域1,311人、諏訪地域1,148人となっている。(表2)

表2

3・長期滞在によるエスニック・アイデンティティの変容

3-1 日系ブラジル人のなんとなく〈定住化〉

 日系ブラジル人は、1990年の改正入管法施行まで、日本国籍を所持する日系1世・2世は就労するため入国し、日本で1~2年働くとブラジルへ帰国した。このことを当初「出稼ぎ」にいくと表現していたが、やがて「デカセギ」(日本へ働きに行く)という意味となりブラジルで通用する単語となった。しかし筆者は、1990年前後に来日した日本国籍を所持する日系1世・2世たちの就労意識と90年以降のブラジル国籍の日系2世・3世たちの就労意識が違うのではないかと考えている。後者のそれは「デカセギ」ではなくグローバル経済下のブラジルから日本への「集団就職的な国際移民」ではないかと考えられる。インタビュー調査で、30代40代の日系ブラジル人の方は「高校を卒業したら、日本で働こうと友達数人で来日しました。」という声が多かった。「家族を連れて日本で働いて暮らします。」「日本で結婚して暮らします。」など、日本で数年労働したらブラジルへ帰国するという「デカセギ」という状況ではなく、すでに長期滞在を想定したような発言もあった。心の中では「いつか帰るかもしれない」けどなんとなくブラジルよりも日本の生活が気に入り〈定住生活〉に入ってしまったという感じである。1990年の改正入管法は、外国人労働者の長期滞在という事態を想定していたのかどうか。長期滞在は移民を受け入れたと同義である。1990年以降多数の日系ブラジル人が居住している市町村では、その対策を迫られることとなった。

3-2 長期滞在によるエスニック・アイデンティティの変容

 インタビュー調査は、2010年松本地域1,845人のうち、主にブラジル人キリスト教会へ礼拝に来られる日系ブラジル人など30人(16.3%)から行った。世代は、日系2世 9人、日系3世 16人、日系4世 5人である。日系4世の在留資格は日系3世の未成年の扶養親族で収入の無い者の場合で、20歳になるまで日本に滞在することができる。日系4世を除く滞在年数は全員が5年以上である。この中から、年齢・滞在年数が類似した日系ブラジル人4名を取り上げる。この4名にインタビューする中で、長期滞在によりアイデンティティが変容している様子がうかがえた。全員がブラジル国籍である。

■Aさんは、日系2世で36歳。両親は共に日本人。1992年18歳で来日。ブラジル国内のインフレで、父親の経営する住宅リフォーム会社が借金で苦しくなり、兄弟6人のうち5人が「デカセギ」来日。ブラジルでの家庭内言語は日本語で、小学校入学までポルトガル語はできなかった。以後高校卒業まで主にポルトガル語で生活。日本に来てから日本語を思い出し、日系ブラジル人仲間の通訳のようなことをしていた。日本で仕事ができ、日本人の女性と結婚し、このまま日本で暮らしたいとのこと。地域のサッカーチームに入っており、チームメイトから「日本人より日本人らしい」と言われたと喜んでいた。日本国籍を取得したいと強く願っている。

■Bさんは、日系3世で34歳。両親は父がイタリア系2世、母が日系2世。1993年に家族4人で来日。14歳だったため、日本の中学校へ入学。しかし日本語がわからず、中学校サイドの言語サポートも無く、不登校となる。大変辛かったという。ブラジルの高校へ入学のため単身帰国。辛い思い出しかない日本が嫌いだったが、ブラジルに帰国した時、日本に行ってきたというだけで友人たちから羨望の眼差しを受けたことから、もう一度日本へ行ってみようと、日本語を勉強し2000年21歳の時に再来日。在日ブラジル人のために、何か役に立ちたいと様々なボランティアを行う。現在、ブラジル人学校で週1回教員をしている。自分の子どもは6歳で、日本の学校へ入学させるか迷っている。自分のアイデンティティはブラジル人だと強く意識している。いつかブラジルへ帰国したいと考えているがいつになるかはわからないという。

■Cさんは、日系3世で38歳。両親は日系2世。家業はコンビニ店。1世の祖父母と一緒に暮らしていた。1990年に19歳で来日。日本で働くと金持ちになれるという日系社会のうわさから、友人11人と一緒に来日。最初3年働いて貯金したら帰国しようと考えていたが、このまま何となく日本で暮らして20年になる。キリスト教会で日系3世の妻と知り合った。ブラジルでは高校卒業しても就職先が無く、日本の有名自動車会社の工員求人があり応募した。行った事の無い日本へ行くことは怖くは無かった。来日時は神奈川県の自動車工場で部品を製造していたが、茨城県でトラック運転手の仕事をし、長野県で精密機械工場から現在は鋳物工場で働いている。ブラジルではより給料の高いほうへ転職することは常識だという。このまま、日本で暮らしたいが、妻がいつかは帰国したいと言っているという。子どもは日本の学校へ入れたいとのこと。このまま日本人になってもよいと考えている。

■Dさんは、日系2世(3世?)で33歳。父は日系1世(戦後移民)で母は日系2世。家業は野菜農家。ブラジルのインフレ経済で野菜農家は経営が成り立たなくなったとのこと。家族で1994年16才の時に「デカセギ」来日。1年後に帰国したが、1996年に再来日。小学校に入学するまで家庭内言語は日本語だったが、入学したとたん日本語は忘れてしまい、日本へ来てから日本語をもう一度覚えた(思い出した)という。ブラジルにいた時から柔道をしていたというがっしりした体型で、日本でも柔道場に通っているという。キリスト教会で知り合ったイタリア系3世の妻と、現在ブラジル人学校を経営している。日本に住んでいるブラジル人の子どもたちのために、ブラジルを忘れないようにポルトガル語の学校が必要だという。ブラジル人としてこのまま日本で暮らしていくだろうという。

3-3 エスニック・アイデンティティの類型化

 イギリスの社会学者、ニンミ・ハトニックは、イギリスに居住するインド人移民の研究から「エスニック・アイデンティティ類型」を提示した。これは、縦軸を移民の「民族的マイノリティ集団への一体化の度合」、横軸をホスト国の「マジョリティ集団への一体化の度合」とし、それぞれの強弱で4つの象限に分類し、そのアイデンティティを類型化している。
 第1象限は、「文化触変(部分的に民族性を保持しながらマジョリティに順応する)」
 第2象限は、「分離(マジョリティと距離をとり、マイノリティに帰属する)」
 第3象限は、「周辺化(マイノリティにもマジョリティにも一体化できない)」
 第4象限は、「同化(民族性を捨て、マジョリティと一体化する)」
 人間は、生まれ育った家庭や地域の文化の影響を受けながら成長していく。国際移民1世は出身国の文化をアイデンティティとして持ち、移民先の国の文化を受け入れていく。移民2世は、家庭内で移民1世の持つ文化と生活を始めた国の文化を受け入れ2つの文化を持つ。移民3世は、家庭内で移民2世の持つ2つの文化で育てられながら、居住している国の文化を強く受け入れる。アメリカでの日系移民の研究などから文化的なアイデンティティの変容が明らかにされてきている。現在の日本に定住している日系ブラジル人はどうなのだろうか。日本国籍を持つ日系1世は、日本の文化(言語や食など)を持ち、帰国してもそのまま適応できるだろう。日系2世は、日本とブラジルの文化を持つので、来日してもその適応はやさしいだろう。日系3世は、ほぼブラジル文化しか持たないため、来日後は様々なサポートを必要とする。また日系人の配偶者の国籍によっても文化的なアイデンティティは大きな影響を受けるだろう。日本に定住している「日系ブラジル人」というカテゴリーには、日系1世(日本国籍)、日系2世(日本国籍とブラジル国籍)、日系3世(ブラジル国籍)、非日系の配偶者(ブラジル国籍)、日本で生まれた日系4世(ブラジル国籍)が含まれる。統計で表される日系ブラジル人は外国人登録するブラジル国籍の日系人とその配偶者などである。この論文ではブラジル国籍の日系ブラジル人を主に調査した。

3-4 「日系ブラジル人の類型化」の試み

 ハトニックの「エスニック・アイデンティティ類型図」を参考に、「日本〈定住生活〉日系ブラジル人の類型化(図1)」を試みた。日本での10年を超える〈定住生活〉の話を聞くにつれ、この日本という国でどのように生きていこうか、という決意のようなものを見ることができる。彼ら彼女らは、日系人(その多くはモンゴロイド的容貌)であるが、あくまでもブラジルという国から来たブラジル人である。〈定住生活〉によって来日時のブラジル人アイデンティティからどのように変容したのか、しないのかを考察してみたい。縦軸に「ブラジル人アイデンティティ保持の強弱の度合」、横軸に「日本社会への接近の強弱の度合」をとり、マトリックスを作成した。

図1

●第1象限は「共生志向型日系ブラジル人」。

 ブラジル人アイデンティティを強く持ちながら、日本人へ溶け込もうと努力している。彼ら彼女らは、日本語を上手に話すことができる。ブラジル人コミュニティと日本社会の両方を行き来することができる。〈定住生活〉をするが日本に帰化する予定はない。日本語力のある日系ブラジル人が該当する。

●第2象限は「日系3世型日系ブラジル人」。

 ブラジル人アイデンティティを強く持ち続け、日本に溶け込もうとしない。ブラジル・コミュニティを中心に生活。日本社会への接近は必要最小限。日本語を話すことができない。来日当初に多く見られるブラジル国籍の日系ブラジル人。特に日系3世や配偶者である非日系人ブラジル人などが該当する。

●第3象限は「日系2世型日系ブラジル人」。

 ブラジル人アイデンティティはさほど強く持たず、かといって日本人アイデンティティも強く持たない。ほどよく二つの文化を持つ。日本語はそこそこ話すことができるので、ブラジル・コミュニティから距離を取り、日本社会とは派遣会社と住居との往復など必要最小限とする。「デカセギ」で数年働いて貯蓄したら帰国する予定。だが、帰国せずに日本で何年も定住している。来日当初に見られる日本国籍を持つ日系2世や家庭でほぼ日本人のように育てられた日系3世。早くブラジルへ帰国したいと願う日系ブラジル人が該当する。

●第4象限は「帰化志向型日系ブラジル人」。

 ブラジル人アイデンティティは弱く、帰国志向もないのでこのまま帰化して日本人になってもよいと願う。日本語はかなり上手に話すことができる。日本人になってもよいと願う日系ブラジル人が該当する。
 人間は自分が依拠しているナショナル・アイデンティティを、移動と共に当初は維持しようと努力するが、時間と共に、移動先の言語や文化・慣習の影響を受けて経年変化を起こす。日系人の多くは、ブラジル人として生きている。彼ら彼女らは、来日時に強いナショナル・アイデンティティを意識しそれを保持しようとする。エスニックビジネスがそれで、1990年以降集住地域には食料品店・レストラン・新聞そして学校が作られた。それは、日本からブラジルへ移民した時に、ブラジルで日本人移民がしたことと同じことが、この日本で行われた。2000年以降各地で就学年齢の子どもたちをブラジル人アイデンティティ確認のために「ブラジル人学校」へと通学させる保護者が増えた。「日本〈定住生活〉日系ブラジル人の類型化」を試みたところ、インタビュー調査を行った何人かの日系ブラジル人が、長期滞在によりアイデンティティが変容しているのではないかと思われた。特にインタビュー調査で特徴のある4人は次のように変容していったと考えられる。

■Aさんは、日系2世。1992年に来日してから18年。来日時に持っていたブラジル文化から、躊躇なく日本での生活に溶け込もうとしている。日本人になろうとしている。日本人の女性と結婚。子どもは、日本の学校へ入学させたいという。Aさんは当初、来日したとき、日本語が少し話すことができた。数年働いて、親の待つブラジルへ帰国する予定だったが、在日10年過ぎる頃から日本での生活が楽しくなり、得意のサッカーでクラブチームに参加し日本人の友人が増えたことにより、このまま日本で永住してもよいと考えるようになった。日本女性と恋愛結婚をしたことにより日本永住を決意した。
第3象限(日系2世型日系ブラジル人)→第4象限(帰化指向型日系ブラジル人)

■Bさんは、日系3世。1993年初来日から17年。母は日系2世、父はイタリア系2世。ブラジル人としての強いアイデンティティを持ち、日本での生活もそのスタイルを崩そうとしない。しかし、在日ブラジル人としてどのように日本に溶け込むかを考えている。将来的には帰国も考えている。インドネシアの男性と結婚。子どもは、日本の学校へいれたくない。
第2象限(日系3世型日系ブラジル人)→第1象限(共生志向型日系ブラジル人)

■Cさんは、日系3世。1990年に来日してから20年。祖父母も父母も日系人。ブラジル文化も持つが、日本への強い憧れがあり就労のため来日。日系3世の女性と結婚。子どもは、日本の学校へ入学させたい。日本の生活で日本語はかなり話せるようになった。このまま祖父母のように日本人になりたいと考えている。
第2象限(日系3世型日系ブラジル人)→第4象限(帰化指向型日系ブラジル人)

■Dさんは、日系2世。1994年初来日から16年。父は日系1世、母は日系2世。柔道をしている。イタリア系2世の女性と結婚。来日してから在日ブラジル人子弟の悪い状況をみてブラジル人学校を設立。在日ブラジル人はブラジル文化をなくさないでほしいと願っている。子どもは、ブラジル人学校へ入学させている。日本語もかなり話せるようになり、このまま日本で暮らして、ブラジル人のために仕事をしたいと考えている。
第3象限(日系2世型日系ブラジル人)→第1象限(共生志向型日系ブラジル人)

 長期の〈定住生活〉により、日系ブラジル人すべてが共生志向型や帰化指向型に変容するわけではない。横軸の日本社会への接近度には、「日本語を話すことができる」という条件がある。日本語をうまく話すことができない、ほとんど話すことができない日系ブラジル人や配偶者である非日系人は、第2象限(日系3世型日系ブラジル人)のままキリスト教会などのブラジル・コミュニティと関わりながら、ポルトガル語で生活を送っている。また、第3象限(日系2世型日系ブラジル人)のまま、他の日系ブラジル人と交流することも無く暮らしている。
 2010年8月内閣府は「日系定住外国人施策に関する基本方針」を発表した。この方針は、日本で暮らす日系人は日本の文化習慣を理解し、日本語を学び、子どもはブラジル人学校でなく日本の公立学校へ入れましょう、というものであった。
 しかし、日系ブラジル人にとって、ブラジル人アイデンティティの保持の強弱はあっても、なくすことはできないものである。

4・日系ブラジル人子弟の就学

4-1  在日外国人子弟の教育

 1990年以降、家族をつれて入国する日系2世もいた。1990年から1995年の5年間で12万人の日系人が来日し外国人登録を行っている。この中には就学年齢である7歳から15歳の子どもたちもいる。その中で未就学の子どもたちが存在し、「問題」となった。
 文部科学省の在日外国人子弟に関する方針は、「日本の義務教育は日本人のためのものであるから、外国人子弟に就学義務はない。従って、日本の教育を希望するのであれば受け入れます。」というものである。日本は1979年に「経済的、社会的及び文化的権利に関する国際規約」を批准したが、この規約13条「この規約の締約国は、教育についてすべての者の権利を認める」が少し前進したのは12年後であった。それは1991年の日韓覚書により、「在日外国人子弟の保護者に「就学案内」で通知する。課外で行う母語・母文化の学習機会は妨げない。」というものである。ついで、1994年「児童の権利に関する条約(以下「子どもの権利条約」という)」を批准した。この条約の批准によって、「国籍に関係なくこの国に住むすべての子どもたちの教育を保障する義務」が生じた。が、未だなされていない。グローバル経済下にあって1990年におよそ1億人の人間が国際的に移動している現状から、日本に居住する在日外国人子弟への義務教育についてどうするかという点について日本政府の見通しは甘いといわざるをえない。1990年以降日本の公立学校等へ就学していない在日外国人子弟が全国に存在している。公立学校へ入学したとしてもポルトガル語しか話せない日系ブラジル人の子どもたちへの言語的なケアは当初なされていなかった。このため、入学しても退学していく子どもたちもいた。
 1995年から2000年にかけて集住地域に居住する日系ブラジル人たちは、ポルトガル語でブラジルの教育が受けられる学校「ブラジル人学校」を設立した。それはブラジル人アイデンティティのためでもあった。その後各地で設立され、2006年全国で96校のブラジル人学校がある。長野県には12校あったが、2008年のリーマンショックによる経済不況でブラジル人労働者の解雇が始まり、3校が廃校となり2010年9校となった。日系ブラジル人の保護者は、自分の子どもの教育を公立学校かブラジル人学校かあるいは不就学させるかという選択を迫られている。

4-2 日系ブラジル人子弟の不就学

 長野県の国際交流推進協会は外国籍児童生徒の不就学調査を行っている。しかし、この数字は推定値でしかないが、2010年のブラジル人の数値をみると学齢期児童生徒数の約30%が不就学であるという。2010年学齢期ブラジル人は1,084人、公立学校在籍651人、ブラジル人学校在籍140人、就学不明293人である。長野県内のブラジル人含む外国籍児童生徒の就学不明者数は594人。長野県の公立小中学校の不登校者数は1,464人であり、こちらについては日本人の義務教育就学者であるため学校からのケアやサポートがなされるが、外国籍児童生徒は不就学であってもケアもサポートも何もない。
 当初、ブラジル人学校の存在は、帰国を前提とした学校であるという認識であった。実はそうではなく、ブラジル人アイデンティティを持つ日系ブラジル人2世・3世保護者たちは自分の子どもたちもそうあってほしいと願った。ブラジル移民を行った日系1世たちが、日本人アイデンティティを失くさないためにブラジルで日本人学校を設立したことと同じことである。人間の形成で、10歳までに母語を確立しないと抽象的思考が困難になるという。このため、母語が確立している10歳以降であるならば、第2言語としての日本語習得は必要性から可能となり抽象的思考も可能となる「バイ・リンガル」になれるが、10歳未満で日本語習得を強制すると、言葉を習得することはできても抽象的思考はできない「セミ・リンガル」という母語も日本語も中途半端な状態になるという。幼少期から日本語を母語として学習することは、日本社会で生きていく上では必要だが、家庭生活で日本語を理解しない親とコミュニケーションがとれなくなるという報告がある。このため、母語確立まで、公立学校で2言語教育が必要とされる。しかし、現実的に公立学校でのサポートは難しい。
 「多文化教育」は、在日外国人の文化的アイデンティティを保障する教育である。公立学校で言語サポートを受けられないのであるならば、ブラジル人学校の活用を考えられないだろうか。ブラジル人学校は、母国語確立のために存在している。

4-3 ブラジル人学校の存在

 ブラジル人アイデンティティの強い保護者は、ブラジル人学校への就学を希望している。それは、言語の問題も含め文化の問題でもある。
 現在、公立学校では「多文化教育」がなされていない。公立学校で行われている「国際理解教育」という名の単元があるが、外国籍児童生徒たちの文化的背景を理解しようというものではない。多くの学校では、外国人を招き交流することが多いが、小学校で英語学習が教科となったことから、英語を母語とする白人が外国人のモデルとして招かれる。
 調査した塩尻市のブラジル人学校では、ブラジルの教育課程に則りポルトガル語で授業が行われている。教科のひとつに語学があり、時間割の中で週に日本語5時間、英語を3時間を割り当てている。ブラジル人学校の校長は、日本で生活するには日本語の習得も大事ですが、ブラジルに戻っても大丈夫なように母語であるポルトガル語の習得も大事だと言う。ここ最近のブラジル人学校の1年生は、日本生まれであるため、本当のブラジルを知ることがないので、ブラジルの教科書を使用しても理解できない場合があるという。10年以上の長期滞在はもうすでに〈定住生活〉であり、ブラジルへの帰国ははるか先のことになっているように思われる。日系3世から生まれた日系4世の滞日期限は「定住者ビザ」では成人まで、である。日系3世のブラジル人は、この子たちがこれからも日本で暮らしていくと決断するならば、「永住者ビザ」か「帰化」するしかない。

5・「多文化共生」という政策を超えて

5-1 「外国人集住都市会議」

 日系ブラジル人の「デカセギ」による短期滞在から家族同伴あるいは集団就職による来日により長期滞在が顕在化した1995年以降、集住地域では様々な文化的衝突があった。特に愛知県豊田市では、市営住宅団地が日系ブラジル人の居住で占められるようになると、外国人排斥のような事件が起こった。日本語が理解できないため、ゴミの出し方などのトラブルが集住地域で頻繁となった。2001年、外国人特に日系ブラジル人が集住している自治体が外国人住民の課題解決のために「外国人集住都市会議」を浜松市で開催した。全国から13の自治体が参加した。長野県からは飯田市が参加している。この会議は、国主導ではなく、地方から声を上げた画期的な会議である。国の定住外国人に対する施策の遅れを教育・住宅・社会保障など国に対して申し入れしたのである。毎年開催され、現在28都市が参加している。上田市は2005年から参加している。上田市は、2004年に外国籍児童生徒の調査を行った。日系ブラジル人等外国籍児童の就学率が59.4%という低水準から、外国籍児童生徒も日本で教育を受ける権利を認め就学につなげようという施策を行った。上田市は「外国人集住都市会議」に参加することで、他の都市の多文化共生施策参考にすることができ、2005年外国籍市民支援会議を立ち上げ、2007年「上田市多文化共生のまちづくり推進指針」を発表した。しかし、その後の経済不況でブラジル人の転出がはじまり、上田市にあったブラジル人学校も生徒数減により2011年に廃校となった。

5-2 「多文化共生」の掛け声

 総務省は、2001年の「外国人集住都市会議」にオブザーバー参加し、2005年「多文化共生の推進に関する研究会」を発足させ報告書を発表した。「多文化共生」という言葉を国が公的に使用するのはここからである。地域における多文化共生の推進に向けて、自治体へ「国際交流」から「多文化共生」へと外国人施策を転換させた。2006年に多文化共生の推進に関わる計画策定を各自治体へ通知し、2007年に策定状況を調査したが、策定した自治体は全自治体の23%であった。
 長野県内では、2002年長野県国際交流推進協会が「外国籍児童就学援助委員会」を設立し、賛助会員を募集し、ブラジル人学校等への経済的支援を行っている。長野県は2008年「多文化共生研究会」を立ち上げ「長野県県民意識調査及び外国籍県民実態調査」を行った。この調査結果をもとに現在施策は行われている。
 松本地域でみると、塩尻市は2000年1,225人の日系ブラジル人が居住していた。このため、ポルトガル語を話す臨時職員を配置し言語サービスなど様々なサポートが行われた。その後、松本市や安曇野市も同様の言語サービスを行っている。現在、在日外国人への情報提供はホームページでも行われている。塩尻市と安曇野市はトップページ上部へポルトガル語への変換アイコンがあるが松本市はトップページをスクロールしていかないとそのアイコンはない。松本市は2010年県内で一番多くの外国籍住民が居住している都市である。このため松本市は定住外国人調査を行い「基本計画」を策定するという。
 松本地域ではボランティアによる「日本語教室」が公民館等で行われている。多文化共生を目指し横の連携を行う目的から、団体や個人などでNPO法人「中信多文化共生ネットワーク」が設立された。特に松本市と連携し、「松本市子ども日本語支援センター」を開設し、公立学校に在籍する在日外国人等の児童生徒のサポートを行っている。

5-3 「多文化共生」を超えて

 日系ブラジル人は「顔の見えない定住化」と言われる。長野県内では、目に見える形で集住しているわけではない。松本地域の外国人登録者数の人口割合をみると、松本市1.7%、安曇野市1.8%、塩尻市1.8%である。「多文化共生」という掛け声がされても、多くの住民は近所に外国人が居住していなければ関心は薄いだろう。日系ブラジル人調査からわかったことは、彼ら彼女らの多くは日本人とのコミュニケーションツールである「日本語」が苦手であるため、必要時以外は積極的に日本人とコンタクトをとることに躊躇しているという。しかし、日本語を学ぶ時間がなく、また日系ブラジル人が派遣されているある工場では、従業員の6割がブラジル人だから、ポルトガル語で仕事ができる。そのため、ますます日本語の習得ができないという。しかし彼ら彼女らは日本語を覚え、そして日本人と交流したいという。
 「多文化共生」という言葉は「国籍や民族などの異なる人々が、互いの文化的違いを認め合い、対等な関係を築こうとしながら、地域社会の構成員として共に生きていくこと」と総務省は定義している。であるならば、義務教育という人権がまず保障されなければならない。不就学の外国籍の子どもたちが存在しているという状況を国は変えなければならないという認識を持つ必要がある。「子どもの権利条約」の完全実施から始める必要があるだろう。学校は在日外国人の保護者が選択することができる。公立学校あるいはエスニック・スクールどちらにしても、エスニック・アイデンティティは保障されなければならない。来日した日系2世・3世のブラジル人は、ブラジルアイデンティティを大事にしようとしている。その上で日本社会との共生を志向している。彼ら彼女らのブラジル人アイデンティティをどのように保障すればよいのか。筆者は、エスニック・コミュニケーションの場の維持と年齢に応じた日本語習得の機会確保にあると考える。(図2不就学等解決モデル案参照)
 外国人児童生徒の教育課題は次のように6つに分類される。1・言語 2・適応 3・学力 4・進路 5・不就学 6・アイデンティティ。子どもにとって、これら6つは全て関連しており、何よりも優先すべきは5・不就学である。不就学がある以上、「多文化共生」への道はまだまだ遠いといわざるを得ない。在日外国人の人権を守れているかどうかが、その指標なのであるから。
 国の外国人施策が遅れているのであるならば、地域で彼ら彼女らを守りサポートし、地域社会がイニシアティブを取りながら進めていくことが「多文化共生」の近道なのかもしれない。

図2

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